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こんにちは。雨の岐阜です。スタディコーチ岐阜校のひろぽんです。
「岐阜」と聞いて「柳ケ瀬」を思い浮かべる人は多いと思います。
美川憲一さんの『柳ケ瀬ブルース』で一気に全国区となった商店街ですが、
本来の姿は地域の人々が集う“憩いの場”。有名になることよりも、
地元の人に愛され続けることこそ大切だと感じます。
柳ケ瀬商店街は、明治期に繊維問屋街として発展しました。
明治末期には芝居小屋などができ、盛り場としてにぎわいを見せます。
大正期には「内国勧業博覧会」の開催をきっかけに商業の街としてさらに発展。
映画館のブームも訪れ、「百貨堂」などの小百貨店も登場しました。
この頃には「柳ブラ(柳ケ瀬ぶらぶら)」という言葉も生まれています。

画像出典:「お話・岐阜の歴史」より引用(外部リンク)
太平洋戦争中、柳ケ瀬は空襲で大きな被害を受けます。
しかし戦後、満州からの引き揚げ者が古着を売り始めたことから再び商業が息を吹き返しました。
昭和30年代には映画館や百貨店が立ち並び、昭和41年には
美川憲一さんの『柳ケ瀬ブルース』が大ヒット。
その勢いで岐阜県初の全天候型アーケードが完成し、全国的な繁栄を迎えます。
平成に入ると、郊外型大型商業施設の登場や交通環境の変化により、
柳ケ瀬商店街は徐々に人通りが減っていきました。
バブル崩壊後の景気低迷も重なり、シャッター街化が進行します。
しかし現在は、再開発やリノベーションによる新たな取り組みが進行中。
高層複合施設「柳瀬グラッスル35」の誕生や、
空き店舗を活かしたカフェ・ギャラリーなどが次々に登場しています。
商店街にとって最も大切なのは、「どれだけ地元の人に愛されているか」。
華やかな時代を経て、いま柳ケ瀬商店街は“人が集う場”としての原点に戻りつつあるのではないかと感じます。
スタディコーチ岐阜校からは少し離れていますが、
秋晴れの日にはぜひ足を運んでみてください。
きっと新しい柳ケ瀬の魅力に出会えるはずです。