塾を経営していると、「現代文で出てくる評論文って、すごく論理的なんですよね?」といった質問を受けることがあります。
でも実は、私は研究業界の人間としても活動しているので、現代文でよく採用されるような評論文の書き手――つまり大学教授や著述家たちの素顔をある程度知っています。そしてその実態を踏まえると、「彼らが論理的思考の持ち主だ」なんてこと、夢にも思いません(笑)
現代文に出てくる評論文って、いかにも筋道が立っていて、複雑で、論理的に見えるかもしれません。でも、それは「そう見えるように書いている」だけであって、実際には、かなり読みにくくて、前提や文脈を飛ばしてしまっていることが多い。つまり、読者が自分で足りない部分を補って読まないと意味がわからないような文章なんですね。
これは、彼らが学術的な権威や思想的立場を確保するために、「専門的で難しそうに見える文章」を書く傾向にあるからです。簡単に言えば、読者に伝えることよりも、自分のポジションを守ることが目的の文章なんですね。
一方で、小説家――特にプロの作家たちの文章は、読者にわかりやすく、興味をもって読んでもらうために、構成や展開を緻密に設計しています。むしろ彼らのほうが、よほど論理的に書いているのではないかとすら思います。
たとえば、村上春樹の文章は感覚的に見えて、実は非常に構造的で緻密ですし、伊坂幸太郎や湊かなえなどの作家たちは、伏線や因果関係を絶妙に配置して読者を物語に引き込んでいきます。
現代文教育では、「論理的に読む力」が問われます。でも、その教材に使われる文章自体が本当に論理的なのか? というと、そこには疑問が残ります。
私たちは、現代文の読解を通じて「論理的であること」を学ばせようとしていますが、実際に使っている文章がその基準に沿っていないとしたら、それは教育の現場にとっても大きなねじれです。
塾で現代文を教えるときには、こうした背景をうまく整理しつつ、生徒には「試験に出るから読む」ものと、「本当に論理的な文章」の違いを意識させるようにしています。
評論文は評論文、小説は小説。どちらが上とか下とかではなく、それぞれの文章の目的や構造を見極めることが、真の読解力ではないかと私は考えています。